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東京高等裁判所 昭和54年(う)1218号 判決

判決

(東京高裁昭五四(う)第一二一八号、業務上過失傷害被告事件、昭54.12.26第三刑事部判決、破棄自判・確定、原審横須賀簡裁昭54.5.2判決)

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

〈前略〉

第一訴訟手続の法令違反の主張について

所論は、原判決は公訴事実記載の過失と異なつた態様の過失を訴因の変更手続をすることなく認定しているから、訴訟手続の法令違反がある、と主張する。

そこで記録を検討してみると、本件公訴事実に訴因として掲げられている被告人の過失は、「幅員約4.1メートルの道路で見透しの悪いカーブの手前で駐車車両を避けるに際し、前方を注視し、安全を確認しつつ進行すべき注意義務があるのに、前方の安全不確認のまま道路右側部分を進行した」というものであるが、原判決は、訴因の変更手続を経ることなく、被告人の過失につき、「かかる箇所を通過するに当つては、徐行すべきことは固より、できるだけ道路の左側に寄つて走行すると共に、警笛を吹鳴するなどの方法によつて自車の進行状況を対向車に知らせ、もつて、事故の発生を未然に防止すべき義務がある。然るに、被告人は徐行はしたものの、道路のほぼ中央を南進し、また、対向車に自車の進行状況を知らす方途もとらなかつた」と認定判示していることが明らかである。

ところで、本件公訴事実の「前方を注視し、安全を確認しつつ進行すべき注意義務」という訴因は、前方注視によつて、対向車その他の障碍物や危険の有無など進路前方の状況が安全であるかどうかを確認することを内容とした注意義務を記載したものと理解すべきであつて、それ以上に、この前方注視によつて認識した状況を前提として考えられる諸種の運転動作、例えば、減速、徐行、停止、避譲、左側通行、警笛吹鳴などの行動に出るべき注意義務までも包含したものと解することは許されない。もし、このように解することが許されるとすると、前方を注視し、安全を確認しつつ進行すべきであるという訴因の表現によつて、あらゆる結果予見義務ないし結果回避義務が事実上審判の対象とされることになり、過失犯における具体的注意義務の特定によつて攻撃防禦の対象を明確化するという訴因制度の機能が失われることになる。従つて本件では、訴因変更の手続を経ないかぎり、前方注視による進路の安全確認義務違反の行為とは異なつた他の動作を過失として認定・処断することはできないといわなければならない。もつとも、本件公訴事実には、被告人の行動として「前方の安全不確認のまま道路右側部分を進行した」と記載してあり、この事実摘示から推定して道路右側部分の進行を避けるべき注意義務をも含んだ訴因が主張されていると解する余地があるようにも思われるけれども、右の記載は結果発生にいたる因果関係の経過を述べたものであつて、これを注意義務を記載した訴因の内容とみることはできない。

以上の理由により、原審の訴訟手続は法令に違反し、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるといわなければならないので、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

第二事実誤認の主張について

所論は、被告人運転の車両は、本件衝突時、道路の中央より左側を走つていたものであつて、道路のほぼ中央を南進したとする原判決の認定は誤りであり、仮に道路のほぼ中央を進行していたとしても、被告人のこの運転には過失はなく、また、本件の相手車両に対しては原判示のような警笛吹鳴の義務もない。さらに、被告人が相手車両を発見してからとつた措置にも過失は見当らない。本件事故は、相手車両の運転者の一方的過失によつて惹起されたものというべきであつて、被告人は無罪である、と主張する。

そこでまず、原審ならびに当審の証拠を検討してみると、次のような事実を認めることができる。

一本件事故現場は、北東から南西に通じる幅員約3.7ないし4.1メートルの、歩車道の区別のない、ほぼ平たんなアスファルト舗装道路で、被告人の進行方向は右にゆるやかにカーブしており、進路右手には人家が並び、道路との境界に接して約1.35メートルの高さのブロック塀および幅約二五センチメートルの側溝が設けられており、進路左手は道路側端に接して不規則な幅の非舗装の空地があり、道路側端との境には所によつて若干の段差ができている。道路面には中央線や路側帯を示す白線などの道路標示はなく、また、規制標識その他の道路標識やカーブミラーなども設けられていない。そして道路がカーブし始める約一〇メートル手前の地点における進路前方の見通し距離は約四〇メートルであるが、カーブ開始地点で進路を右寄りに移した場合には、その見通し距離は約32.2メートルである。

二被告人は普通乗用自動車(ニッサン・セドリック)を運転して右道路を北東から西南に向かつて進行し、原判示場所の進路が右にカーブし始める地点付近に時速約二〇ないし二五キロメートルでさしかかり、道路左側に路側端をまたいで駐車していた車両を避けて進路を道路右側に移し、駐車車両の右脇を通過して約5.7メートル前進したあたりで速度を時速約一五ないし二〇キロメートルに減じたうえさらに約3.7メートル進行したころ(この時、この地点では、対向車を22.9メートル前方に発見することが可能である。)、進路前方約19.9メートルの地点に対向して来る普通貨物自動車を発見し、これとのすれ違いのため、左に転把してやや道路左側寄りに移行するとともに停止しようとして制動し、約五メートル前進した際、時速約四〇キロメートルの速度を全く減ずることなく道路の中央寄りを進行して来た右対向車両の左前部分に自車の右前部分を衝突させ(その時の被告人車両右前部は進路の右路側端まで2.1メートル、相手車両の右前部は反対方向の右路側端まで1.6メートルであつた)、その衝撃により相手車両の運転者に原判示の傷害を負わせた。

そこで次に、右のような事実関係のもとで、本件の衝突事故は被告人が業務上の注意義務を怠つた結果生じたものと認めて過失責任を問うことができるかどうかを検討してみる。本件の道路は前示のように幅員四メートル前後の狭い裏通りで、事故現場付近は前方約四〇メートル程度しか見通しがきかないカーブになつており、普通自動車など車幅のある車両が高速のままですれ違い・離合することは極めて危険なことが一見して明らかな場所であるから、自動車の運転者としては、あらかじめ低速で走行することはもとより、対向車を認めた場合には、安全なすれ違いをするため直ちに最徐行し、進路を左端に寄せ、相手車両との接触を避けるのに必要な間隔の維持・確保に留意しながら進行するという運転態度をとらなければならない。しかしこのような道路においては、被告人の方だけでなく、同時にまた対向車の運転者の方でも全く同様た運転の仕方をしなければ、双方の車両が無事に安全なすれ違いを完了することは極めて困難であると認められるのであるから、被告人としては対向車両の運転者もまた自分と同様な運転態度に出るであろうと考えることは当然であると思われる。従つて、このような場合自動車の運転者に要求される運転行動としては、対向車の運転者の方でもすれ違いの際の接触を避けるためにとるであろう同じような運転態度を期待して、これと相まち、相補つて結果の発生を回避し得る程度・内容の注意義務を尽くした運転をすればそれで足り、それ以上に、相手車両の動静いかんにかかわらず、自分の方の運転操作だけによつてすれ違いの際の危険の発生を回避するように措置することまで要求することはできないといわなければならない。ところで本件では対向車の運転者は徐行、左転把、制動、その他安全にすれ違うために必要な行動を全くとることなく、高速のまま進行して来て被告人車と衝突するに至つたものである。一方、被告人の運転の仕方は前示のとおりであつて、ただ相手車両の発見には、前進距離にして約三メートル、時間にして一秒に足りない遅れが認められるけれども、被告人にこの程度の発見の遅れがあつたとしても、対向車の運転者が事前に安全なすれ違いに必要な運転態度に出ていたとすれば、本件衝突の結果は回避することができたものと考えられ、仮に相手車両の運転者にも被告人と同じ程度の対向車の発見の遅れがあつたとしても、同人が狭い道路でのすれ違いに必要なその他の配慮を尽くしていれば、なお衝突の結果は避けることができたものと認められるから、被告人に本件結果を発生させた原因となる前方不注視の過失があつたとすることはできない。

なお、道路右側部分の進行を避けるべき注意義務があるか否かについて付言すると、本件道路は中央線の標示もない幅員約四メートルの狭い道路で、すれ違いには双方の車両が接触を避けるために互に徐行その他の適切な運転操作をする以外に他に取るべき適当な方法がないと認められる場所であるから、対向車とのすれ違いのためにする道路左側への移行も対向車を発見した段階でその動作に移れば足りるものと解すべきであつて、対向車とのすれ違いに備えて常に道路の中央より左側を走行しなければならない業務上の注意義務はないといわなければならない。さらに、警笛吹鳴の義務について一言すると、本件のように双互に対向車として現認可能になつてから後の徐行や進路移行などによつて結果を回避することができる場合には、まだ見通しのきかない進路前方にいる対向車を予側してこれに自車の接近を知らせる必要はなく、また、対向車を前方に発見した時は、同時に対向車の運転者も被告人車に気付いて被告人と同じような適切な運転操作に出るであろうことを期待してよいと考えられるのであるから、対向車の運転者にあるかも知れない前方不注視に備えてまで、これに警告を与える必要はないといわなければならない。

以上に説示したように、本件公訴事実のもとでは、どのように業務上の注意義務の訴因を構成してみても、被告人に対して過失責任を負わせることはできないと考えられるので、原判決が被告人に過失を認めたのは、刑法二一一条の罪につき解釈を誤まつた結果、その罪の成立に必要な事実を誤認して罪とならない事実を有罪と認定したことになり、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決はこの点においても破棄を免れない。論旨は理由がある。

そこで刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条によつて原判決を破棄し、同法四〇〇条但し書により当裁判所において被告事件につき自判することとする。

本件公訴事実は、被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和五三年四月二五日午前八時五五分ころ普通乗用自動車を運転し、横須賀市久里浜八丁目一〇番一四号先の幅員約4.1メートルの道路を旧米軍倉庫方面から住吉神社方面に向かい時速約二〇キロメートルで進行中、見透しの悪いカーブの手前で駐車車両を避けるに際し、前方を注視し、安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに、前方の安全不確認のまま道路右側部分を進行した過失により、自車前部を反対方向から進行中の樫村良二(当二二年)運転の普通貨物自動車に衝突させ、よつて同人に加療約二一日間を要する頸部捻挫等の傷害を負わせたものである、というものであるが、右公訴事実について認められる前記事実関係のもとにおいては、被告人が注意義務を怠つたということはできず、他にその過失を認めるに足る証拠がないから、本件については結局犯罪の証明がないことに帰着するので、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

(小松正富 石丸俊彦 佐野昭一)

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